鳥居強右衛門磔死之跡  新城市有海
天正3年(1575年)5月、長篠城 は武田軍15,000の大軍に包囲されたが、この包囲網を突破し家康 に救援を求める使者を命じられた鳥居強右衛門勝商 は、5月14日の夜、野牛門の不浄口から豊川 に降り、長走りで 鳴子綱 を破り、約4km下流に上陸して西方の 鴈峰山 を目ざした。  ここで「脱出成功」ののろしを上げ、15日に岡崎城 に入り家康、続いて信長 に救援を求めた。そして、城の危急を思い、とって返して16日に再び雁峰山で「援軍来る」ののろしを上げた。  そして城内潜入を図ったが捕らえられ、「援軍来たらず」と言わされるところ、城に向かって「援軍来る」と敵を欺いたため、敵兵の槍先に散った。 墓は、作手の 甘泉寺 と有海の 新昌寺 にある。
このページを印刷   前のページへ戻る   表紙へ戻る
 

(1)県道443号を東に進み・・・

(2)飯田線と交差する手前を左折した突き当りにある

(3)写真をクリックすると拡大表示されます

(4)

(5)

(6)

(7)鳥居強右衛門勝商は豊川市市田町の生まれ

(8)武田軍の鳴子網を潜って豊川を下り

(9)広瀬のこの地に上陸し

(10)雁峰山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎までひた走る

(11)鳥居強右衛門の墓は新昌寺と

(12)新城市作手の甘泉寺にある

(13)豊川市の赤塚山公園には鳥居強右衛門勝商顕彰碑がある

(14)鈴木金七の墓は新城市作手にある

前のページへ戻る   表紙へ戻る   このページのトップへ


無断で当サイトの写真・地図の複製を禁じます