山本勘蔵信供の墓
新城市川路字寺ノ前98
山本勘蔵信供 は、武田の軍師
山本勘介晴幸
の子で、天正3年(1575)5月、
長篠・設楽原の戦い
で20才の若さで討ち死にした。
信供らは、はじめ高坂昌澄らとともに、
長篠城
監視隊として、寒挟川沿いに備えていたが、
武田勝頼本陣
から全軍設楽原に終結し、決戦することを指示され竹広の山形高地に転戦した。 しかしこの時すでに遅く味方の軍勢は総くずれとなり、信供は単騎で
徳川本陣
めざし斬り込み、渡辺半蔵守綱との戦いに敗れた。(看板資料より)
山本信供戦死の地
は大海地区にある。
このページを印刷
前のページへ戻る
表紙へ戻る
(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
このページのコメントを送る
前のページへ戻る
表紙へ戻る
このページのトップへ
無断で当サイトの写真・地図の複製を禁じます