江戸時代、豊川は奥三河や信州方面と 吉田湊 (現在の豊橋)を結ぶ河川交通の中心。 東上御番所は、寛永20年(1643年) 幕府領であったこの地に、豊川を下る船の荷物に課税をする幕府の番所として設けられたもの。 課税価格は運ぶ荷物の価格の何分の1と言う基準で課税したために分一番所と呼ばれた。この時の代官は、現在の八幡町に広大な大池 を造った三河代官 鈴木八右衛門 が務め、以後 明治維新(1868年)まで続く。荷物の運搬に活躍したのが「鵜飼船」で、この 鵜飼船の碑 が新城市乗本の 旧黄柳橋 の横にある。 |
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