安土桃山時代の天正18年(1590年)に 吉田城 主である 池田輝政 は牛久保、新城、田原、西方に陣屋を設け、ここ西方は家臣である 森寺忠勝 を配置して御津の支配にあたる。 慶長5年(1600年)池田輝政の姫路転封に従い一時期空城となったが、慶長17年(1612年)松平忠利 が吉田藩主となると、弟の忠貞が入ってこの塁を守る。
やがて松平氏は江戸へ移るが、家老であった長沢太郎左衛門がこの地に留まり帰農した。 現在もその末裔の屋敷となって残っている。
森寺忠勝の墓は、ここより東方のJAひまわり御津の横、忠勝寺 の中にある。 |