原隼人佐昌胤の墓
新城市竹広
原昌胤は父・昌俊の跡を継いで陣場奉行を勤め、
長篠設楽原の戦い
でも武田勝頼 に撤退を進言したが容れられず、内藤昌豊 らと共に徳川本隊を目指して攻撃したが、惜しくも敵の銃弾を浴びて討死にした。
昌胤は平時は優れた土木技術者として治水工事で大きな業績を残している。
設楽原古戦場いろはかるた
治水にも つくせし昌胤 ここに死す
いろはかるたは、道を挟んだ向かい側、
信玄塚
の道路沿いにある。
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【 2017年05月28日更新 】
(1) これは「信玄塚」の道路沿いにある。
(2) 信玄塚の道路を挟んだ向かい側角にある。
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