天正3年(1575年)5月21日、長篠・設楽原の戦い で武田軍が敗走してここまで来た時、旗本笠井肥後守満秀は 武田勝頼 の馬が疲弊したのを知ると自分の馬を勝頼に勧めてここを立退かせ、自らは 「我こそは勝頼」 と名乗って、織田軍瀧川源右衛門助義と組討ち、刺違えて戦死した場所で、花の木公園 釣堀の中にある。 そして、瀧川助義の墓は 亦谷中世墓地 に、笠井肥後守満秀の墓 は 龍泉寺 の北側にある。
また、すぐ裏には、武田軍が自ら架設した橋を先を争って渡ろうとしたために、渕に落ちて亡くなった武士も多かったという 「橋詰さんばし」 の跡があり、ここは、寒狭川の中で最も川幅が狭く、「鵜の首」
と呼ばれ、桟橋(丸太橋)があった所。 |