岩瀬忠震 は文政元年(1818年) 設楽原を治める旗本設楽貞丈の3男として生まれ、江戸の昌平坂学問所で学び幕吏となる。
嘉永8年(1853年)ペリーが来航した時に、目付として対米交渉に当たり、安政5年(1858年)には アメリカ領事ハリスと交渉し日米修好通商条約
に調印。
しかし安政5~6年(1858年~1859年)にかけて井伊直弼 の断行した安政の大獄により免職させられ、文久元年(1861年)44才で病死。
岩瀬忠震の顕彰碑は、勝楽寺入口の左手にあり、岩瀬忠震公之像は、 設楽原歴史資料館 の前にある。 |