大江定基・北条時頼・水野公の墓碑  豊川市八幡町寺前7
三河守 大江定基 が大宝山の山麓に草庵を結び六光寺とし、天台宗弘道の傍から 力寿 の冥福を祈ったのが 西明寺 のはじまりといわれている。
その後、鎌倉の北条時頼 が最明寺入道となって諸国行脚の際、当寺に足を留めたときに六光寺を最明寺と改め禅宗寺院になる。更に、永禄7年(1564年)徳川家康 が八幡砦における今川氏との戦いの際本寺に立寄り、空腹をしのいだその恩顧を深く感じ、最の一字を西と改め西明寺なる。そして、延徳元年(1489年)駿河の刺史水野氏がこの地を領した時、寺の衰微を歎き、尾張国知多郡より太素省淳和尚を招請して始祖とて、曹洞宗寺院を開山し現在に至る。墓地には、大江定基・北条時頼・水野公(水野信元か?)の墓碑が三開基として祀られている。
このページを印刷   前のページへ戻る   表紙へ戻る
【 2014年06月19日撮影 】

(1)墓地の西北の一段高い所の奥にある。

(2)左から、北条時頼・大江定基・水野公の墓碑

このページのコメントを送る   前のページへ戻る   表紙へ戻る   このページのトップへ


無断で当サイトの写真・地図の複製を禁じます