江戸前期の茶人。 茶を千宗旦(そうたん)に学んで皆伝をうけ、宗旦四天王の1人となる。京都鳴滝に住んだが、明暦元年、三河吉田藩主小笠原忠知の茶頭となって30石5人扶持をうけて吉田に移住。
この時の住まいの址が、豊橋公園 児童遊園地の一角にある。
元禄10年(1697年)、職を辞し江戸本所に移り宗徧流を開く。ここに赤穂義士が出入りし、吉良上野介の茶会の日取りを聞き出したという。
宝永5年(1708年)4月2日死去。82歳。
山田宗徧 作庭の枯山水の庭園と彼の墓は 臨済寺 にあり、池泉廻遊式の蓬莱庭園は 湊町神明社 にある。 |
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