鳶ヶ巣奇襲隊進路松山越
新城市吉川小川路
天正3年(1575年)、
設楽原の戦い
の前夜、信長の命を受けた
酒井忠次
は3千の兵で豊川を渡り、この吉川から松山峠を超えて
長篠城
の背後まで迂回し、武田軍の拠る
鳶ヶ巣山
を攻撃した。この作戦が、織田・徳川連合軍大勝の起因となったといえる。(説明板より)
この松山越えはいくつもの険しい峠と谷をつなぐ難路で土地の者でなければわからず、この時、吉川から先導したのが吉川在住の
豊田藤助
だった。また、この地域を「寒欠」といい、ここが 「吉川」発祥の地だという。
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