森田氏と若宮八幡 前のページへ戻る   表紙へ戻る

 門谷から大野へ出る県道の途中に東門谷という戸数8戸の部落があり、ここに森田姓を名乗る家が4戸ある。この森田氏は、昔は長田を名乗っていた。
 長田を名乗っていたころのこと、3人が連立って伊勢参りに出掛けた。ところが、その中の1人が知多郡に用事があったので、同地へ廻って内海の浜から乗船して行くことになった。用事も無事に済ましたので、いよいよ船に乗って出発しようとした。だがどうしたことか、船は岸を離れることができなかった。八方手を尽したが、どうしても動かないので不審に思った船頭たちが、「もしかしたら、この船の中に長田の姓の人が乗っていないか。もし乗っていたらすぐ降りて欲しい。でないと船が動かないのだ。」と大声で呼ばった。これを聞いてびっくりした3人が、恐る恐る船頭に近寄って理由を尋ねたところ、「昔、野間の里で源義朝が長田忠致に殺されたが、その亡霊が長田氏にたたるので、長田の姓の人がここで船に乗ると船が動かなくなるのだ。」と話した。3人はやむなく船から降りたところ、船は何事もなかったように出港して行った。
 長田姓の3人は、内海の人たちに源義朝と長田氏との関係を聞いてみると次のように話してくれた。
 「平治の乱の時、都で平清盛に敗れた源義朝が、かって親しい間柄であった知多郡野間の村の豪族長田忠致を頼ってきた。ところが忠致は悪い野心をおこし、義朝の首を京へ送って清盛に接近して取立ててもらわんと企て、入浴中の義朝を襲って殺害し、首を六波羅へ送った。しかし、清盛は長田父子の反逆を怒り、恩賞どころかかえって討手を差し向けるという風評が高くなってきた。長田氏はひそかに野間を出てはるばる鳳来寺へ逃げ込み、この境内に入って難を避けた。このことを探知した義朝の部下渋谷金王丸は、主君の仇を討たんとして鳳来寺を目指し、ふもとに居を構えてあだ討ちの機会をねらっていたが、ついに討つことができなかった。それ以来、義朝の亡霊が長田にとりつき、奇怪なことが起こるようになったのだ。」と語ってくれた。
 これを聞いた3人の長田氏は、旅を終って郷里へ帰ると村の人を集めてこの旅での出来事を報告した。村人は衆議一決、長田を改姓して森田と称することにし、それ以来森田姓になった。
 鳳来寺山中にこもっていた長田氏は、仏門に厚く帰依し、やがて門谷弾正という豪族に引取られ、その力添えで東門谷に居を構え部落を開いて現在に至った。今もこの部落の中に馬かくしとか、長田のかくれが跡という所が残っている。
 この部落は源氏にゆかりの深い八幡様を氏神とし、御神木になっているすぎの大木は樹齢数百年という巨木で、町の文化財に指定されている。長田忠致が使っていた馬のくらを埋めた所に植えられたすぎの木がこの御神木である。

鳳来町誌民族資料編(南設楽郡鳳来町発行)より引用


若宮八幡社の大杉

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