● 一宮砦と神君後詰の戦 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 一宮砦は、永録年代家康の築城とも言われますが、考証はありません。徳川方の前方基地であったことは間違いなく、今川、武田の西上に控えて、家康は、本多百助に命じ、500の兵を与えて守らせたものであります。(中略)
 吉田城、牛久保城はともに今川方の拠城ですが、家康が重要の基地とこの土地を選び、布陣させたのが、この一宮砦でありました。なお今川は佐脇、八幡方面に楔を打ち込むように進出し砦を築き、西郷弾正父子に守らせました。
 永録5年9月家康は、酒井、大久保を先鋒として、佐脇、八幡で死闘を繰り返し、石川新七、渡辺半蔵などの活躍で、西郷弾正父子を討ち取り、小坂井、二連木まで進出しますが、西三河地方の一向一揆が起こり、その鎮定のため岡崎に引き上げましたので、また今川が佐脇、八幡まで進出しました。
 やがて武田と同盟を結んだ今川は、吉田、牛久保方面に1万の大軍を差し向け、さらに5千の兵を持って、一宮砦の攻撃を命じ、武田の精鋭8千が家康の進出を阻むため布陣したと言われます。
 百助の危急を知り、直ちに救援準備に入りますが、家康武将の多くがこの作戦の無謀を諌めました。しかし家康は、配下の危急を救うのが将の勤めと、本意を翻さず、出陣を命じ、一官砦に急行し包囲の今川軍を蹴破り、百助とともに敵を敗走せしめ勝利を獲得いたしました。
 岡崎出陣に際し、家康は主従信義の道を説き、主人の大事は家臣が助け、家臣の危急は主人が助けるのが道であると説き、予が討死してもこれは天命であると武将を説得したと伝えられ、仁君家康への賛辞は後世に残されたのであります。
 ふるさとの伝説 昔のはなし(宝飯郡一宮町発行)より引用 


一宮砦

一つ前へ戻る        HOMEへ戻る