養父の渡し 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 大和と金沢の境に、豊川という大きな河が流れており、橋がないので渡しでした。養父の渡し、と云って船頭さんは大和と金沢で1日交替でした。船頭小屋は金沢側の堤防に建てられてあって、大和側から渡る人は、夜など船頭さんが寝入っていてなかなか起きてくれず、「おーい」「おーい」と、1時間以上も呼んでおった人もあったという事です。出征兵士や、入営兵の送りむかへは、皆この渡しでした。
 金沢側の堤防に並んでいる村民達は、兵士が川の中程迄行くと、○○君萬歳、萬歳、萬歳と両手を高くあげて送り迎えしたものです。
     雪嶺を
        かえりみ立てり
           渡し中
 郷土出身の冨安風生先生が詠まれた句で、北に本宮山の霊峯を眺め、南に大照山小照山あり、風光明眉、交通の要衝であります。
 大正の末期になって、西側の堤防に柱を立て、それにロープを張り、滑車のついたロープをつなぎ、そのはしを舟にしばりつけて、水勢で舟が走る様に工夫しました。然し時代は移り変わり、大和も金沢も一宮村に合併したので、当時の村長浦野藤一郎氏が、県土木に交渉して流れ橋といって−流れるといってもロープでつないである橋で、増水すると真中から分れて両岸に漂い、平水になると、消防員が出て元の位置になおすという仕組になっていて、大変都合がよくなりましたが、増水した時に渡ると大変危険でして、或る年中学2年生の少年が、橋すれすれ迄水かさが増して来た所を自転車で渡ろうとして、足をすべらして川に転落し、押し流されてしまいました。
 こうして1人の犠牲者を出しましたので、これを契機に、金沢橋架橋促進期成同盟会が発足し、7ヶ年の歳月を費やして、3億円以上の国費をもって、金沢橋という立派な橋が出来ました。今日では、町民は申すに及ぼす、県外の人達迄が車で渡り、ものすごい交通量となっております。
 「一宮町むかしばなし」(一宮町若辺大学発行)より


金山橋竣工記念碑

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