●  旗頭山の由来 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 旗頭山は、吉祥山から西にのびる支脈の西北寄りの標高80mほどの山であります。
 東は新城市から遠く鳳来寺山、南アルプスの山々、西は豊橋市から渥美半島を一望におさめ、北から北西をみれば一宮町全域と豊川市、蒲郡市まで遠望でき山頂からの眺めはすばらしい。
 かねてから要望のでていた登山道が、町営墓園西側の階段を登りつめたところから古墳群に通じるように、町教育委員会でつくられました。 旗頭山古墳群は愛知県の指定史跡です。
 江戸時代には、笠頭山と呼んでいましたが、私の子どものころは坊主山と呼んでいました。 草刈山のため木がなかったのです。 いつごろから笠頭山から旗頭山に変わったのか考えてみましょう。
 新城市の三原屋薬局さんに 『野田戦記』 という写本があります。 この本は、野田菅沼の起こりから幾度かの戦いのようすが書かれております。 この中に、武田信玄の野田攻めが書かれています。
 元亀3年12月、武田信玄と徳川家康は三方が原で戦い、家康軍は大敗、信玄は遠州刑部城を取りこえて、天正元年正月11日に刑部城の近くから、気賀・引佐を越え浜名、平山を通り宇利が原から一鍬田を通りササラ瀬を渡り石田村に出て、杉山原に陣をしき野田城攻めに入ります。 菅沼定盈は浜松の家康のもとへ使いを出します。
 家康は自筆の書状に鉄砲2丁をそえて、
「七日間堅固に持ちこたえよ、尾張の信長と後詰をする。」
と約束します。
 信玄は杉山原から稲木、吉水の丸山に本陣をとり、勝頼は座頭がけに陣をとり、家康、信長の後詰にそなえて長期戦のかまえで武田信豊軍と交互に攻めた。 八名井の地侍加藤長四郎が浜松に使いに行き、帰りに豊川を渡るとき馬の足音で武田軍にみつかり討死し、こえて養父村の地侍冨安十郎太夫が徒歩で城を出て、首尾よく帰ったら笠頚山で狼煙をあげると約束して、吉田城の家康のところへ行き笠頭山で狼煙を上げます。
「城中ではつつがなく参ったり、やがて後詰あるべし、喜ぶこと限りなし。」
と記しています。
 家康は笠頭山まできて、野田城を見ますと、武田軍は大軍で城をかこみ大川には中村、東上八名井瀬、広瀬、ナワナイ瀬など浅い所には遠州、上州の先手が守る様子をみて、去年12月、三方が原の戦いで士卒の多くが討死し、手負いも多いということで戦わずして吉田へ帰り、その後、賀茂の照山あたりへ両3度来て賀茂神社で戦勝祈願をしておりますが、城は2月に救援もなく水を絶たれ落城します。
 家康が笠頭山にきて、旗をたくさん立てて帰ったと言います。八名井、江島、金沢の人たちが誰いうとなく旗頭山と呼ぶようになり、笠頭山から旗頭山に変わったと思います。
  ふるさとの伝説 昔のはなし(宝飯郡一宮町発行)より引用


旗頭山尾根古墳群

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