● 境川と郡界橋 前のページへ戻る   HOMEへ戻る 

 東上の牛の滝をつくって豊川に流れ注いでいる川を境川と言います。この境川は名のとおり現在一宮町と新城市の境になっている川ですが、この境川という名前が付けられたのは、ずいぶんと古い昔のことであります。
 今から1280年あまり前、奈良時代より少し前の大宝元年に大宝律令という国を治めていくきまりが公布されました。日本中、それぞれ国が定められ、この地方にも三河の国と名前が付きました。
 この三河の国は行政上、七つの郡に分けられました。西の方から言うと、碧海、幡豆、加茂、額田それから宝飯、豊川の南に八名、渥美の七郡です。
 このうち、宝飯郡はずいぶんと広い地域でありました。つまり西は形原から東は長野県境の北設楽までという広すぎる郡だったので、平安時代になって延喜3年(903年)、今から1080年はど前にこの境川で分割されて政冶が行われるようになりました。
 その延喜3年の記録つまり民部省、式頭注によりますと、
 延書3年8月13日、割宝飯郡、置設楽郡
と書かれています。その時に宝飯郡と設楽郡との境になったのが、牛の滝を作って流れている今の境川であるのです。
 今は一宮町と新城市の境の川と考えている人が多いようですが、この境川の名前のことは今申し上げたように、ずいぶん古いことがおわかりでしょう。それから境川で分けられた設楽郡は明治12年に南設楽、北設楽の2郡になりましたので、それから南設楽郡との境の川となり、現在は宝飯郡一宮町と新城市の境の川になっているのです。
 さて、国道151号線がこの境川を渡る橋を郡界橋と名前が付けられています。今の国道は、前は県道で明治15年(1882年)、今から105年前、旧伊那街道に代わって新しく造られた道で、新道とも言っていました。この明治15年に新しい県道が出来たとき、架けられた橋、当時南設楽郡と宝飯郡の郡境の橋ということで郡界橋という名前が付けられたのであります。

ふるさとの伝説 昔のはなし(宝飯郡一宮町発行)より引用


郡界橋

一つ前へ戻る           HOMEへ戻る