● 浄瑠璃姫と長沢の腰かけ石 前のページへ戻る   HOMEへ戻る 

 義経と浄瑠璃姫のお話は各地に伝えられています。 承安4年(1174)源義経は京都の鞍馬山から、奥州、平泉の藤原秀衡をたよって、旅を続ける途中、三河の国、矢作(岡崎市) の里で兼高長者の屋敷に宿をとりました。
 その夜、おぼろ月夜の薄暗の中になんともいえぬ美しい琴の音色が流れてきました。
 義経はその音に誘われるように、母の形見の 「薄墨の笛」を取り出して奏でながら、音のもれる離れに近づいていきました。 部屋の中では、長者の一人娘の浄瑠璃姫が「想夫恋」の曲を奏でていました。 義経の薄墨の笛と浄瑠璃姫の琴の音色が重なり合い、もつれあい、義経と姫の心はひとつになって燃えあがりました。
 しかし、義経は源氏再興の大望のため奥州へいかねばならず、夜が明ければ、別れなければならない2人です。 義経は薄墨の笛を姫の手に渡し、「きっと、この笛と共に姫を迎えにくる」といいのこし、まだ夜が明けぬうちに、旅立ってしまいました。
 夜が明けると姫は、義経を慕って長沢の追坂(鴻ノ巣付近)まで来たが、追いつくことはできず、石に腰かけて途方にくれていました。 この休んだ石を「腰かけ石」と呼んでいます。
 姫は、そこで一首の歌を詠み、持っていた竹の杖につけて地面に立てました。 その時の杖は不思議にも、芽が出て次第に繁茂しました。 里の人は姫の心情を思い、その薮の竹から杖を作り、姫の歌を彫って旅人に売り、長く世に伝えたということです。 その歌というのは、
『あくはさるよしとききなばおおくこに
   生きたつ竹の杖ぞたのしき』
「あくはさる」とは、義経の「よし」の前ことばであろうか。 そして、「生いたつ竹の杖」というのは、姫の気持ちであって、義経に会いたい、消息を知りたい、それがわかれば、姫はたいへんうれしい、という意味ではないでしょうか。
 腰かけ石から、さらに宮路山頂に登っていく途中に洞穴がある大きな岩があります。 姫がここまで義経を慕って来ると、洞穴から猿が出てきて、「もうあきらめて帰りなさい」という‥・。思案の未姫は泣く 泣く矢作に引き返したといわれ、この岩を「猿岩」といっています。
 矢作の里に帰った姫は、待てど暮らせど、義経からは何の便りもこない。 再び会える日を待ち続けていたが、3年後の春、ついに、焦がれる心を押えきれなくなり、世をはかなんで乙川に身を投じてしまいました。 その場所を浄瑠璃渕と呼んでいます。
 兼高長者の菩提寺誓願寺は現在、矢作橋(岡崎市) の近くにあります。 この寺の本堂には、義経と姫の木造が仲むつまじく並んで置かれています。
 また、この寺にはずいぶん古い形の笛が保存されているといわれ、これが薄墨の笛だとも伝えられています。
 墓地には、浄瑠璃姫の墓が乳母冷泉や兼高長老らの墓と並んで建てられています。
 16歳の義経と、14歳であった姫の過した一夜は、はるか遠い歳月の彼方に去ってしまっていますが、その時の琴と笛の音色と、義経を慕う姫の心が、800年にわたって受けつがれている思いがします。

音羽の歴史を訪ねて(音羽町教育委員会発行)より引用


東林寺

浄瑠璃姫と長沢の腰かけ石

猿岩

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