● 海に消えた皇子 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 1200年も前のこと。 弥生3月、西風が激しく吹き荒れたため、沖で漁をしていた漁船が牟呂の陸地へ吹き寄せられていた。漁船に混じって一隻の不思議な形をした船があった。その船には舳先もなければ臚もない。
 村人たちは、「船中から何か物音が聞こえる。人の話し声が聞こえる」
と不審がった。その時、年老いた漁師が、
「これは話に聞くうつろ船だろう」
と言った。村人たちが、板を外してみると殿上人と思われる若い男女2人と、年のいった女が1人、屈強な武士が2人の5人が乗っていた。
 一行は長らく海上を漂流していたとみえて、色は青く、やせ衰え、ものも言わず、ただ手を合わせ、涙を流し、
 「我らは故ある者だが助けてくれよ」
 と、願うばかりだった。
 牟呂の郷人たちは、どこの誰だか解らないが、とにかく、家につれ帰り、手厚く介抱した。一行はやがて元気を取り戻すと、ここに流れ着いた訳を話した。
 一行は、天武天皇の皇子で開元親王と、官女と乳母、2人の家来だった。天皇は兄たちよりも文武ともに優れる第三皇子の開元王を、日頃より好ましく思わなかった。ある日、天皇の怒りに触れて皇子は流罪となった。その時、4人の者も一緒にうつろ船に閉じ込められ、流されてしまった。
 話を聞いた村の者は、そのような立派な方を草家などではもったいないと、村長に申し出て、大海津の南にあるひがき屋敷に新御殿を建て、皇子の住まいとした。
村人たちは皇子を「開元王」と呼び、敬い慕った。
 皇子も大変に喜ばれ、御殿の裏に観音さまを祀り、深く信仰された。この観音さまは、御殿の真後ろにあるということで、真裏口(ませぐち)の観音と呼ばれ、多くの人の信仰を集めた。そこには村人ばかりか、遠くから大勢の人が訪れ、市が立つほどとなり、そこを市道と呼ぶようになった。
 やがて皇子もお后を迎え、日常の生活にもゆとりができたので、宮路山に登ったり、舟遊びを楽しむようになった。そのような度々の外出や、近国の神主に官職を許可したり、多くの人が観音さまにお参りするようになったことが、国府の役人の知ることとなった。役人は、天皇の皇子であることに驚き、都にそのことを報告した。
 天皇は開元王の振舞いを知り、怒って討手を差し向けた。それを知った皇子は見苦しい死に方はしたくないと、自分の死を覚悟し、村長にこれまでの礼を言うと、自ら海に入り、やがて波の間に隠れてしまわれたと伝えられている。

 豊橋の民話「片身のスズキ」(豊橋市図書館発行) より引用 


眞福寺

観音堂

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