● 日色野比久尼の伝説 前のページへ戻る   HOMEへ戻る 

 「江戸時代のはじめ、日色野(旧字、菱木野)は吉田領に所属していたが、その中に熊野領が2反歩位あった。熊野領は吉田領と区別するために、田のまわり木賊(とくさ)を植えた。そして他の土地とひと目でわかるようにしていた。毎年、年末になると、熊野から尼さんが船に乗ってきて、前芝の燈台のところに上陸して、日色野の庄屋さんの所へ行き、熊野領の年貴米をもらい、尼さんはそれを金にかえて紀州に帰るのがならわしであった。ある年いつものように、例の尼さんが、日色野の庄屋である山内五太夫さんの家へ年貢をとりに来た。ところが、年貢米のことで話がもつれ、山内五太夫は非常鐘をたたいて村人を召集L、この尼さんを追いかえそうとした。村人たちは、尼さんを牧平金平さん宅あたりまで追いつめた。観念した尼さんは、土塀近くのたまの木の枝につかまって庭の中に逃げようとして、その木に登りかけたが、村人の1人がとびロで尼さんを引きずりおとし、ふくろだたきにして、ついに気絶させてしまった。それから庄屋の家につれていって水をかぶせた。すると尼さんは、突然目を見開き、うらめLそうな目つきで村人を見まわし、
「よくも私をこんなひどい目にあわせたな。私は一生日色野の人々にたたってやるぞ。」
と言ったかと思うと、ロからどす黒い血をはいて死んでしまった。村人たちは、この尼さんのことばを恐れて、熊野領の真中に比久尼塚を作って弔い、塚の上にもちの木を植えた。」
ということてある。
 昭和になって、耕地整理のためこの比久尼塚をとり払い近くの路傍に地蔵を立ててまつった。尼さんのつかんだたまの木は枯れたけれども、その後新しく芽をふいた若木がのぴている。この木の枝を払ったりすると、大病にかかると、今も伝えられている。

豊橋のむかしばなし(豊橋市立中学校国語部発行)より引用 


比丘尼地蔵

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