● 間宮権入(栖了院) 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 江戸時代のはじめころ、畠村の地頭に間宮権左ヱ門之等という人がいました。
 法号を「権入」 (ごんにゅう) と称し生来乱暴で、領民をしいたげ民が罪を犯せば自らこれを斬首したといわれ、また一説には、夜な夜な街道に現われて辻斬りを行なったともいわれています。人々は「権入」 「権入」と憎しみをこめてその名を呼んでいました。寛文7年8月4日、さしもの暴君もよる年なみにはかてず、この世を去ったので、遺子次左ヱ門正等は、その遺骨を菩提寺の栖了院に葬り、大きな石碑を建てました。ところが、翌日になってみると、その石碑が倒れており、あわてて建てなおしましたが、また倒れ何度も同じことをくりかえしました。これはきっと無実の民百姓を苦しめたそのたたりであろうと考え、ねんごろに供養を行い、石碑の下に権人の差料であった刀をはさみ、やっと建てることができたといわれております。
 間宮氏の屋敷は、旧役場附近にあって近くには「潮干川」(小溝)が流れ、以前は「仕置川」と呼ばれたもので、「血の滝」 「首切りの井」等の名も近くに残されています。
 間宮氏の領地は娘婿の戸田氏経が継ぎました。権入の子正等は、尾張藩に仕えるようになりましたが、折立には間宮氏の隠居所がありました。この折立の隠居所の表門は維新後移され法寿軒の表門となり、本町最古の建造物として貴重な存在でありましたが、おしくも伊勢湾台風で倒れてしまいました。権人の墓は、栖了院墓地に一族の墓とともに建っていますが、昭和19年12月7日の大地震で倒れ、この碑のみ中央より折れてしまったのも、くしき因縁のように思われます。
      碑文
        寛文七丁未八月四日
     法名 源光院殿真誉権入大禅定門
            間宮次左三門尉正等建立

 渥美町の伝説(渥美町教育委員会発行) より引用 


栖了院

間宮権入の墓

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