● しゃもじ山 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 どんどんどんどん………
 まだ夜が明けるには間があるというのに、龍谷山運昌寺(田原町大字野田字雲明)のお庫裡の戸を、激しくたたく者がありました。
「どなたじゃな、こんな時刻に。」
 運昌寺の和尚さんが戸を開けると、息を切らして、ころがりこむように入ってきたのは立派なお侍と、お供らしい3・4にん。
「これはまあ、どうなされましたか。」
「湯を……、湯を1ぱいたのむ。」
 あがりがまちに腰をおろすと、もう眠っています。起きだしてきたおばあさんが、大急ぎで火をくべて、茶釜で湯をわかしてさしだしました。
 「ああ、生き返ったようじゃ。」
「ちいとお休みになれば、おかゆでもたきますほどに。」
「いや、大急ぎだ。出かけようぞ。」
「それはそれは、ではこんなものでも、お腹のたしにしてくだされや。」
 おばあさんは、大きな木箱から、栗の実や椎の実の干したのを、袋へ入れてさしだしました。
「ばあさんや、世話をかけたな。わしは岡崎の城主、徳川家康じゃ。故あって火急に国元へ帰らねばならぬ。ところで何かほしいものはないか。」
「へい、ありがとうございます。この辺りはたきものに不自由しておりますで、できればたきものがほしゅうございます。」
「はう、どれほど欲しいか。」
「へえー、こーんなくらい。」
 おばあさんは、手に持っていたしゃもじで、顔の前に大きく丸をかきました。
「ほう、よしよし、では裏の山を、こーんなくらい進ぜよう。すきな時に、たきものを取るがよい。」
 家康も大きく手で丸をかきました。それで今でも、運昌寺の裏山をしゃもじ山と呼んでいます。その時、湯をわかした茶釜も残っています。
天正10年(1582)6月1日本能寺で織田信長が、明智光秀に討たれたことを、徳川家康は堺の町で知り、国元でどんな騒動が起こるやも知れずと、夜を日についで、国元岡崎へ帰る途中のことでした。
 家康と家来の者は、もらった干し栗をかじりながら、運昌寺の下の畷を、また駆けに駆けていきました。それでこの畷のことを、栗喰み畷というようになりました。また瓜喰み畷だという人もいました。瓜のなる季節だったから、家康は瓜をかじりながら、走ったかもしれません。今の国道259号線、吹上から仁崎口辺りまでのことです。
 後に家康が天下を治めるようになってから、野田村の比留輪山へ、狩りにおいでになったことがありました。このとき家康は運昌寺へ寄られて、あの時のお礼に、山を寄進したのではないかともいわれています。それは、いかに家康でも、あの時はまだ他領の土地、勝手におばあさんに山をあたえることはできないだろうともいわれるのです。
 しかし2度も運昌寺へ、家康がお寄りになったという記録はないそうです。

蔵王−田原区文化誌(渥美郡田原区発行) より引用 


運昌寺

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