● 鶴鵡石の由来 前のページへ戻る   HOMEへ戻る 

 今から約1200年ほど前の、天平年間のことであります。
 ある日、表浜の越戸の海岸に、小舟が1そうよりつきました。 年ごろ28、9才の異国の人がのっていました。 位の高い人に見えました。 泉福寺の自聖和尚さんが、自分の寺につれ帰って、お世話をしていました。 天平15年、泉福寺の本堂の、4間4面のふしんをこの男がいたしました。 この男は、異国の王様の3男で、流れついたのが28才であったことから、泉福寺に28部像を、記念にまつりました。 この男は、渥美太夫重国と名のり、伊川津の般若寺の近くに住むことになりました。 まもなく郡司になりました。 この辺が渥美太夫重国の治めた土地であるので、渥美郡の名が起ったといわれます。
 渥美太夫重国は、天平17年3月、高根山(越戸の大山)の猪狩の見物に行きました。 夕暮れ谷間に、17、8才の美しい娘が、桜の枝を、折っているのにあいました。 人里はなれたところで、年若い娘1人でいるのを不思議に思い、重国は馬からおりて、尋ねましたら、「母と2人暮しでしたが、その母が病死して、明日はその命日であるので、この桜の枝をとっているのです」と申しました。 重国は屋敷につれ帰り、召使いにいたしました。 その後、この娘を妻に迎え、名を八重寿と改めました。 泉福寺に願をかけたところ、天平20年8月、玉のような女の子が生まれ、玉栄と名付けました。
 ある日重国の留守に村松喜兵ヱという賊が来て、金を取って帰ろうとしました。 八重寿は、天に向かって何か祈りますと、一天がにわかに、かきくもり、喜兵ヱの頭の上に、雷が落ちました。 重国が帰りますと、玄関に大男がたおれており、台所に大蛇がわになって、ねていましたので、大声をあげますと、八重寿は、あわててもとの姿になって、「私は高根山にすむ大蛇であります。 いろいろお世話になりました。 今日をかぎりに、おいとまをいただきます。」 横笛を玉栄に、片身にのこして、亀山村の豊島ケ池の主になりました。
 そのうちに、玉栄は17歳になり、主馬助と結婚するようになりましたが、母は大蛇であることがわかり、結婚はことわられました。
 ある雨の降る日の夕方、鶴鵡石の上にあがって、母の片身の笛をとり出し、一曲吹き終って、のどをついて一生をとげました。 このことがあってからこの岩には、玉栄の霊魂がとどまってか、岩に向って歌をうたえば、岩の中から歌い返すように返されつづけて来ます。 笛の音は返って来ません。 誰いうとなしにこの岩を鶉鵡石といい、後の世に越後の国の和尚さんが、玉栄の碑を岩の上に立てました。 誰が描いたのか、鶴鵡石の正面には油絵の玉栄の肖像が措いてあります。 学校から遠足によく行きました。 鶴鵡石の由来を、芝居で見たのも遠い昔になりました。 鶴鵡石の上には、越後の国の義導和尚さんの玉栄の詩を、碑に刻み建ててあります。

      少康禅師の住事を思い出て
             我真似に念佛申せよ鸚鵡石

 渥美町の伝説(渥美町教育委員会発行) より引用 


鸚鵡石

豊島ヶ池跡

一つ前へ戻る        HOMEへ戻る