八人塚 前のページへ戻る   HOMEへ戻る 

 田原町大久保の西山のふもとに、八人塚といわれる塚があってよ。その傍に、古い大きな松の木があっただそうな。
 慶応年間のころ(1865〜68)のこと、この近くの長興寺様を建て直す時、この松を用材にしようとして、大勢の人が手伝いに出てこの松の木を伐りたおしてしまったと。すると、大工の棟梁をはじめ、木挽きさ、お役で手伝いにでた敷地(字名)の人達まで、皆はげしいおこり(熱病)をふるって、寝ついてしまったとよ。
 なんでそんな………
 昔も大昔、応仁の乱という大きな戦が、京都を中心に、西と東に分かれて長い間続いとったと。この戦に敗れた武士が8人、敵の目をのがれ、のがれて、やっとこの西山の麓までたどりついたとなあ。
 長い戦いのため、田も畑も荒れ果てて、食べるものを恵んでもらうこともできず、着物もぼろぼろ、腹がへって腹がへって、八人の武士は、とうとう道端の庚申様を祀った松の木の根元に、たおれこんでしまったと。まあ一足も歩けん。のたれ死にしては武士の恥と、8人の武士は切腹して果ててしまわれたそうな。むごいことよのう。筑紫の人だったと。
 西山の人達は、その武士達をあわれに思って、塚を作り、碑を立てて供養してあげたとよ。それが八人塚で、里芋型の碑が今も建っておるわい。
 その時、そこにあった松の木や杉の木は、どんどん大きくなって、塚の上を覆うほどに伸びひろがっておった。その木を伐ってしまったんだなあ。
「こりゃあ、8人のおさむらいがたたったんだ。」
「この木に8人の衆の霊魂が宿っとっただ。」
「そや、熟にうかされた人が、行くとこがない≠トって、うわごとをゆったげえな。」
 村の人はおそがくなって、木を伐ることを止め、八人塚の石碑を作って、一そう手厚く供養をしたと。
 そうすると、おこりをふるった人らも、皆なおって元気になったとなあ。
 墓石型の碑には、八人塚………と上の方だけ読めて、後ろには、小さい漢字が沢山書いてあるけど、うす暗いし風雨にさらされて、ようくは読めないだ。おおかた、この碑を立てた敷地の衆の名前だらあということよ。
 右横には、慶応……とだけ読めて、左横にもなんとか書いてはあるが、長い年月にはかなわんのう。
 その後でも、昭和の初めごろかやなあ。電話工事の人が、架線のために梯子をかけて、そこの松だか杉だかの枝を払ったところ、梯子が引っくりかあって、工夫さんは頑を割る大けがをしたげえなとか、その枝をもらって帰って、たきものにした道路工夫の人は、チフスにかかったげえなとか、いろいろな話が残っとるだよ。
 けど、10年の余も前にならあか、ここの松だか杉だか、松という人もあり、杉だという人もあるだが、大きなのが枯れてしまって、いつころぶかと危いのに、誰もおそががって伐る人がおらんだ。そいで役場へ頼んで、切ってもらっただ。けど誰にもなんのさわりもなかったで、皆ほっと胸をなでおろしたってよ。
 今もここに残っとる杉の木は、一抱えにも余る太いもんで、そんな昔からの木だということよ。杉の木もずん分と年とっただのう。
てっぺんは枯れてしまって、枯れ枝が突っ立っとるだけど、中ほどは青々と四方に枝を張って、せまい土手いっぱいに、しっかり根をおろして、供養碑を守っているかに見えるのう。松はなくなり、いつ生えたとも知れぬ槙の木が、ずい分と大きくなり、雑木といっしょに、うす暗いほどに茂っておるよー。
 今でも敷地の人達は、年1回、長興寺様にお経をあげてもらって、おまいりをするそうな。近所の人は、いつもお花をあげて、この碑を大切にしておりますと。

蔵王 田原区文化誌(田原区発行)より引用 


八人塚

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