● 赤和尚のカシャ退治 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 菅沼の楽法寺は、今から600年くらい前の、南北朝時代に、南朝方の親王のけらいであった菅沼俊治公をとむらうために建てられたものだということです。曹洞宗の格式の高い寺で、江戸時代には、末寺が7つもあり、かなりのりっぱな寺でした。菅沼俊治公は、3石9斗 (702キロ)のお米を寺に寄進していました。7つある末寺は、守義の領正寺、木和田の光林寺、島田の竜泉寺、折立の竜岩院、恩原の正眼寺、下山の常楽寺と、いずれも作手の近くにありましたが、ただひとつだけは、遠く遠州引佐郡の別所というところに本竜寺がありました。
 江戸時代の楽法寺の住職に赤和尚とよばれている人がいました。赤和尚という名は、酒が好きでいつのまにか鼻が赤くなっていたからだとも、いつも酒に酔っていてあから顔をしていたからつけられたともいわれていました。
「すごい和尚さんだぞ。」
という人や、
「酒ばかりのんでるこまった和尚さんだ。」
という人もおり、さまざまなうわさがながれていました。いずれにしても、赤和尚という名は、近くの村々に知れわたっていました。
 ある年のことです。赤和尚は、用事のため、遠州に出たついでに、末寺のある引佐郡の本竜寺に、しばらくとどまり、あたたかな遠州の春を楽しんでいました。そのおり、本竜寺の檀家に不幸がおこリ、葬式をおこなうことになりました。作手の楽法寺の和尚さんがみえているときいた檀家の人々のたっての願いで、赤和尚も導師として葬式をすることになりました。
 式の当日、赤和尚がお経を読み、死者をとむらっている最中のことです。今まで、春の明るい日ざしがさしこんでいた座敷が急にうす暗くなりました。そのとたん、なまぐさい風がザァーと吹いてきました。うすきみ悪さに人々は互いに顔を見合わせ、息をのみました。黒雲が、あたり一面に低くたれこめました。雲の中から、何やら大きなけものが1匹とび出しました。
「ぎゃあー!。」
「きゃあー 助けてぇ!。」
 葬式の会場は、にげる人やら、なきわめく人やら、大さわぎとなってしまいました。
 座敷におりたったけものは、牛よりも大きく、猫ににた顔をしていました。ロは耳までさけ、2本のきばはするどくとがり、目は赤くぎらぎらと光っていました。
「カシャだ カシャだ 古猫の化けものだー!。」
 だれかがさけびました。カシャは、さわいでいる人には目もくれず、ずかずかと祭壇においてある棺桶に近よっていきました。
「ああっ」
 みんなは、なすすべもなく、ほうぜんとカシャをみているだけです。さわぎ、おびえている人々の中で、ただ1人赤和尚は、おどろきもせず、ゆうぜんときょくろくに腰をかけたままお経をとなえていました。カシャは、がんじょうな前足を棺桶のふたにかけ、中の死者をうばっていくようすをみせました。
 その時です。それまでおちつきはらっていた赤和尚が、目にもとまらぬ早さで、ぱっと棺桶の上にとびあがり、カシャをギョロリとにらみつけると、
「悪魔退散」「怨敵退散」
と、大声でとなえ、もっていた珠数をカシャに向かって「はっし」と投げつけました。すると、今までたけりくるっていたおそろしい顔のカシャが、かい猫のようにおとなしくなりました。大きなからだをちぢこませ、再び雲にのりコソコソと帰っていったのでした。
 再びあたりは明るくなり、さわやかな風もふいてきました。
「ほーっ。」
 居合わせた一同は、ほっとした大きなため息をつきました。赤和尚は何事もなかったような顔をしてお経をあげています。そんな赤和尚の姿をみて、遺族の人も、会葬者もようやく気持ちがおちついて無事に葬式をすますことができました。今さらのように、赤和尚の偉大さに感心しました。やはり、なみの和尚さんではなかったと大勢の人から尊敬されました。
 楽法寺は、江戸時代の半ばごろ、火災のため全焼しましたが、菅沼俊治公が使用した乗馬用のむち、菅沼家定紋入りの供養膳椀1対、網代かご、菅沼公から住職にくださった竹ぺい等は持ち出され難をまぬがれました。今も寺宝として大切に保管されています。

つくでの昔ばなし(作手村文化協会)より引用 


楽法寺

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