● 空道和尚 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 空道和尚は、江戸時代の中ごろ、竹広の農家に生まれました。 名を鈴木仙之助といって、父親が早く亡くなりましたので、母親との二人暮らしでしたが、よく母の手助けをしていました。 また、仙之助は、利発な少年でもありました。 大宮の般若寺に出かけては、宗信和尚の話をきいていました。 大きくなって、設楽の領主旗本設楽弾正という人にとり立てられて、武士になりました。鈴木仙之助と名乗ったのはこの時からであったろうと思います。
 ある時、領主の命令で、江戸へ出かけることがありました。 この出府が、仙之助の一生を変えることになりました。 江戸で、彼は、武士がわが物顔に振る舞い、町人や百姓を苦しめている様子を見て、ひどく心を痛めました。 生来、慈悲の心の厚く、宗信和尚の話をきいて育った仙之助には、耐えられなかったのでしょう。 江戸の用事をおえて故郷にかえった彼は、享保16年、武士の生活を捨てて、仏門にはいる決心をしました。 そして、吉田に出て、小松原の万年和尚の弟子になり、空道と名を改めました。 彼の厳しい精進ぶりには、師の万年和尚も舌をまくほどでありました。
 やがて空道は竹広に帰ると、生家のある断上山のふもとに庵を結んで、そこで母と暮らしました。 故郷の人々に、仏の道を伝えようとする決意が強かった彼は、宗信和尚の亡きあと、その志を継いで、般若寺にはいりました。 そこには宗信和尚の大事業であった、大般若経600巻の書写があと20巻ほど残されていました。 新しく住職となった空道和尚は、まずこの仕事の完成をはかりました。
 空道和尚は、仏道三昧の生活を続けながら、人々に仏の道を教えたり、すすんで慈悲を施す人でありました。 人々は深く空道和尚を尊敬し慕っておりました。 また、和尚は多芸な人でもありました。 暇をみては、あるいは人に請われるままに、絵筆をとって仏画をかき、のみをふるって仏像を彫りました。 そして、設楽原の決戦に散った両軍戦没者の霊をなぐさめる供養をかかしませんでした。 信玄塚に観音と地蔵の石仏を供養のため建立しました。 閻魔堂の閻魔大王は領主設楽貞根の願いをうけて空道和尚が作りました。 ほかにも、勝楽寺の魚板、石座神社の神馬、竹広のおびんずる様なども作りました。
 世の無常を悟り、人々の苦しみを仏の教えによって救おうと考えた空道和尚は、般若寺の裏山に穴を掘り、一室を設けました。 そして中にはいって座禅をくみ、鉦をたたき、念仏を唱え断食にはいりました。 生きながらの埋葬を自ら選んだのです。 日ごろ、空道和尚の教えを受けた人々は、和尚を慕い、昼も夜も、空気だけの通う竹筒の周囲を離れないで、嘆き悲しみ続けたということです。 竹筒からかすかに聞こえていた鉦の音もついに絶えるときがきました。 安永元年9月18日のことでした。

 新城昔ばなし 365話(新城市教育委員会発行) より引用 


般若寺

空道和尚の墓

信玄塚の閻魔大王 

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