● 大善寺の「六人仏」 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 大善寺の墓地には、江戸時代のはじめから、今日までの長い間のお墓が、無縁仏までふくめす千数百基もたっています。その中で、「六人仏」とよばれているお墓が、6つならんでいるのが目をひきます。高さ40センチほどの台石の上に、笠のついたお墓が2つ、笠のつかないのが4つ、苔がついて相当古いもののようです。
 正面に、それぞれ
  剣即欣応居士
  剣到理白大柿
  剣夢幻心信女
  剣功縁霜信士
  剣宥香夢童子
  剣接了風童子
と、法名が刻まれています。どれにも「剣」の字が上についているのが奇異に感じますが、これは、みんな自らの命を断った人たちのものにちがいありません。
 お寺の過去帳によりますと、6人は、新城藩の家臣で、牧野彦太夫と、その妻、そして、その子どもの4人です。享保10年(1725)2月25日、同じ日に亡くなっています。彦太夫56歳、妻45歳、長女21歳、長男16歳、二男13歳、三男9歳でした。長女21歳といえば今では娘ざかり、短い花の命でありました。
 どうして、一家6人が自らの命を断つことになったのでしょうか。お寺のいい伝えによると、こういうお話がありました。
 牧野彦太夫は、新城藩の家臣で、相当上級の地位にあった人であります。享保といえば、江戸時代の中ごろ、戦もなく、世の中はたいへん平和で、人々は豊かなくらしをしていました。武士たちの間には、武士としての修練をおこたったり、ぜいたくをするものもあらわれて、全体の士気があがらず、質実剛健という武士の気風がくずれていました。
 そのことに我慢ができなくなった彦太夫は、「意見書」を書き、それを殿様に直接差し出して、藩士たちに対し、きびしい倹約令を出すように……と、具体的な内容をそえてお願いしました。どんなことにしても、殿様に直訴することはいけないとされていた時代のことです。城からもどった彦太夫は、家臣でありながら主君に諌言を申し上げたことは大変無礼なことであったと、深く反省し、妻と4人の子どもとともに、自刃してしまいました。
 それにしても、罪科のない幼い子どもたちまで、死出のともにするとは、なんとも痛ましい事件でありました。

 新城昔ばなし 365話(新城市教育委員会発行) より引用 


大善寺

六人仏

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