● 胴切り松 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 竹広の道ばたに「山県公の墓」と彫った案内標柱がある。 その小道が「火おんどり坂」と呼ばれる古道である。 ここを登っていくと、木立の中に「山県三郎兵衛昌景之碑」があり、そのうしろに「山県墓」が立っている。 その墓に「胴切り」と呼ばれてきた1本のめ松の大樹があった。
 この辺り一帯は、竹広激戦地で、設楽原の戦いが最も激しかった所である。 武田の武将山県の率いる騎馬隊が断上山の家康本陣を目指して、三重の柵を突き破ろうと、果敢な攻撃を繰り返した。 だが、織田・徳川連合軍の三段構えの銃列は厚く、累々としかばねを重ねた。
 山県公も多数の銃弾を受けて両腕の自由を失い、口に采配をくわえての戦いぶりであったが、鞍の前鎖を撃ち抜かれ、落馬してしまった。 従者の志村又右衛門は主人を抱いて後方に退き、手当てをしたが、山県公は息絶えた。 志村はしかたなく主人の首級をいただき、小烏丸の小刀をそえ、「遺体の供養を後々までお願い申す。」との文を書き残して立ち去った。
 戦いが終わって、小屋久保に難をのがれていた村人たちは、竹広の里に帰ってきた。 田地を荒らされ、家屋を焼き払われたなかで、人馬の死体の処理に当たった。 そのとき、山県公の胴体の傍らに、志村の書き置きにそえて、小刀のあるのを発見した。 そこで遺体をひそかに、時の庄屋峰田氏の持ち山に葬った。 遺体の在りかの証として1株の松を手向けて植えたのであろう。 この時から峰田家では、山県公の供養を続けてきた。 また、このあたりを「山形」と呼ぶようになったのも、山県公に因んでのことである。
 胴切り松は、昭和の初めごろに枯死してしまった。 しかし、昌景の部将としての偉さを象徴するかのように、胴切り松にかわって今もなお、1本のひのきが空に大きくそびえている。 このひのきは根元の周りが243センチ、樹齢ははっきりしないが、約200年と推定されている。

新城昔ばなし 365話(新城市教育委員会発行) より引用 


山県昌景の墓

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