● 岩広河岸と広瀬の渡り 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 富沢の光仏橋(今はらんかんもないので橋らしく見えない。)のところから南に折れていくと、広瀬の田んぼが開けてくる。 その一帯の西の端、豊川に面して、設楽氏のいた広瀬の本城がある。
 もとの道を広瀬の民家のある方へ行き、再び川への道をたどると岩広の河岸のあったところにつく。 やぶの中の道は草が生い茂って、河岸におりつくまでには相当苦労がいるというのが現状である。
 この河岸は、川合文左衛門さんの弟の七兵衛さんが分家してここに河岸を開いたのがはじまりだという。 この河岸からは、小柄(家庭用燃料として、雑木を30cm余に切ったもの)などが多く積み出された。
 文左衛門さんの三代目の泰輔さんが、豊橋で医者を開業したときには、代々住んでいた家をとりこわして、この河岸の近くから川下げしたという。 そのころ、材木を筏にくんで川を流すことも盛んであった。
 明治になると、荷車で小柄が運ばれてきたが、河岸の近くに住んでいた、朝さという人は、小柄をいっぱい積んだ荷車がひっくり返って、下敷きになって死んだという。
 七兵衛さんの子孫は、大正の後期まで、河岸から船を出していた。 汽車が通じてからも、船の方が運賃が安かったので、一宮のおまつりにはお客をのせていったという。
 この岩広の河岸の川上は、青石とよばれる瀬となっている。 広瀬のわたりともいって、両岸の人は歩いて渡った。 その川上には、渡船があったが、勝楽寺のおせがきの時など、女や子どもまで、すそをまくって渡ったものだという。
 広瀬には、古くから広瀬という名字の家があり、今は子孫の広瀬清孝さんが、もとの家の近くに住んでいる。 この広瀬家は、設楽氏の家臣であったが、長篠合戦のとき、岡崎へ救援の使者に立った鳥居強右衛門(鈴木金七もいっしょだったという説もある。)は、この広瀬の河岸に上陸し、広瀬家に立ち寄り、そこできものを乾かし、腹ごしらえをし、弁当をもらって雁峰山へ向かったという。
 鈴木金七については、富永の川上の生まれで、本城から広瀬あたりの川のことはよく知っていたので、金七が道案内をしたのだと、土地の人は言い伝えている。
 新城昔ばなし 365話(新城市教育委員会発行)より引用 


広瀬の渡

鳥居強右衛門勝商上陸の地

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