● 布里城址 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 戦国時代の山家三方衆の1人であった田峯菅沼氏の属城で、その菅沼氏の一族の菅沼大膵亮定継が守っていた。また定継の弟の定直は黒瀬城にいた。
 今川氏の勢力がこの付近まで伸びていたころで、共に今川氏に隷属していた。ところが弘治2年(1559年)に、織田信秀が西三河方面から作手に兵を出し、亀山城にいて作手を支配していた奥平貞勝(遺文ともいい信昌の祖父)を降し、さらに進んで布里城に迫った。城主定継はついにその力に屈してしまった。今川氏はこれを聞いて怒り、黒瀬城主定直に命じて布里城を攻めさせた。定直は今川義元の激しい怒りを恐れ、兄の守っていた布里城を攻めた。
 定継は弟定直から攻められることを無念に思いながら、田峯菅沼方の将山川清兵衛(愛郷恩原の雨堤城主)の応援を得てよく戦った。しかし今川勢を後陣に備えた定直方は布里城を包囲して攻めたので定継はついに自害して果て、城は落ちた。また定継を応援に来た山川清兵衛の軍勢は定直の軍と激戦を展開したが、黒ぬたの地でほとんど全滅してしまった。
 この戦闘は、今川義元が桶狭間で破れて戦死した4年前の出来事であった。義元は定直の軍功を賞して布里城を与えた。そこで定直は黒瀬城から布里城に移って支配していたが、兄を攻めて自害させたことを悲しく思い、やがて時代が織田から徳川の天下になるに及んで、定継の子定忠(小法師)を取立てて布里城主から田峯城主にし、兄の霊を慰めた。この定忠の子孫はやがて徳川に仕え、加納(岐阜)10万石の大名となった。

鳳来町誌民族資料編(南設楽郡鳳来町発行)より引用 


布里城跡

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