新城の能舞台 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 富永神社境内に、拝殿の前方東側に西面して建っている能舞台は文政9年(1826)建造のものである。元文元年に祭礼能が始まったころの舞台は、掛け小屋式の屋根もない簡単なものであった。当時の記録に、上演中に雨が降ってきて困ったとか、中止したことなどが書いてある。
 寛政5年(1793)に「御宮に舞台、楽屋新規出来」の記緑があるが、これは組み立て式のもので、能が終わると解体して保存し、翌年また組み立てて使用したものらしい。
 今の能舞台の棟には、孝和2年8月建立と文政9年9月再建の棟札が2枚ある。享和2年新築から文政9年再建までわずか24年間というのはいかがなものであろうか。享和2年新築の舞台は火災で焼失とか、地震で倒壊かなどとも考えられるが、記録も伝承もないのでわからない。
 文政9年再建、すなわち現存の能舞台は入母屋造り、総かわらぷき、柱の長さ1丈5尺5寸(4.7m)、床の高さ2尺5寸(76cm)、舞台の広さ京間で3間四方(12.7坪=42平方㍍)、後座の奥行き京間で、1間半(5.4坪=18平方㍍)、脇桂と笛桂の間に3尺(90cm)の地謠(じうたい)座がある。
 鏡板には老松、切戸脇の壁板には竹が描かれている。橋掛かりは長さ田舎間で7間、幅7尺6寸(8.7坪=28.8平方㍍)、両高欄付きで、すべて彫刻などの飾りはないが、ヒノキの良材を用いて荘厳な建築である。床は束を立てず、床下にかめを埋め、音の反響がよくなるようにつくられている。
 この能舞台はひそかに江戸幕府のものを模写したもので、その結構は近国無比といわれていた。城主もこの分に過ぎた建築には、幕府のおとがめを恐れて表向き、係の役人をしかったといわれている。橋掛りの長さを田舎間にしたのも、京間にすると幕府のものと全く同じになるので遠慮したといわれ、それでも充分長いので演能の時は三の松まで立てることができる。 
 下って大正15年、本殿や拝殿を改築の時、能舞台を後方へ約3間移転して見所を拡張し、また楽屋や鏡の間などの大改修を行った。
 その後、昭和33年、舞台の屋根がわらのふき替え、同49年正面破風と庇の大修理、また舞台及び橋掛かりへ照明工事を行い、これを機に長年本町で出費管理してきた能舞台の所有権を神杜に引き移した。
 能舞台が神社所有になったので能舞台を能だけの使用にせず、他の活用を考え、琴や詩舞の演奏を行ったこともある。また昨年からは例年大祭の時、稚児舞、笹踊りなどを拝殿で奉納しているのをこの能舞台で行い、多くの人がよく見えるようになったといって好評を得ている。

新城歴史ばなし(新城市郷土研究会発行)  より引用 


富永神社と能舞台

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