● 信玄塚と火おんどり 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 天正3年(1575年)5月21日(新暦の7月9日)長篠の戦いの設楽原の決戦は、織田・徳川連合軍の圧勝に終わり、武田勝頼は、わずか数騎の兵に守られて甲州へ落ちのびていった。
 戦いがすんだ後、避難先の出沢の小屋久保から帰った竹広の村人たちは、戦場のあとかたづけに従事し、両軍の戦死者を手厚く葬った。 大塚は武田軍、小塚は織田・徳川軍の戦死者を葬ったといわれている。
 その夏、この塚からたくさんの蜂がでて、人や馬を刺し、信州往還は通行ができないほどになった。 村人たちはこれを戦死者の亡霊だと思い、川路の勝楽寺の玄賀和尚を頼み、大施餓鬼を営み、その霊をなぐさめた。 そして、夜にはいって盛んに松明をともして供養したところ、不思議に蜂が出なくなったという。
 江戸時代、文政・天保のころ、松明と団扇を持って踊るようになったが、次第にタイの大きいものを用いるようになり、アシとシダで作った大束を使うようになった。
 村人は今でも火おんどりの火が体にかかると夏病みしないという。
 火おんどりは、8月15日盆の夜、火打石でおこした浄火から松明に点じ、行列を作って塚に至り、ここで太鼓とかねと笛の音にあわせてタイを振りかざして踊る。
 両塚の上には松が植えられ、大松、小松と呼んでいた。 年を経て亭々と立つ老松のこずえをわたる風の音に、人知れぬ昔を語る響きがあった。 大松は34年9月の伊勢湾台風がもとで命脈を断ち、小松は20年後の昭和54年、雌雄の幹が相ついで運命をともにしてしまった。
 「討死の霊に手向けん二代松、幾星霜の命永かれ」と願いをこめて植えられた二代松が、伝え継がれていくであろう火おんどりの火を見守って、いつか、あの大木に育ってくれるにちがいない。
 新城昔ばなし 365話(新城市教育委員会発行) より引用 


信玄塚

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