● 仙千代丸の祠 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 仙千代丸は作手亀山城主であった奥平美作守貞能の次男で、長篠の戦の時、城を守ってその有名を馳せた九八郎信昌の弟である。
 元亀2年(1571年)山家三方衆が相携えて武田氏の支配下に入り、奥平氏は仙千代丸と奥平定置の長女阿和とを人質として武田氏に差し出していた。ところが信玄なき後の武田氏より徳川家康の方が将来有利であると考えた父貞能は、天正元年(1573年)8月に、一族郎党を率いて作手を退去し、徳川に走った。武田勝頼は大いに怒り、人質の両人を黒瀬城へ護送し、城代武田左馬助信豊に命じて礫刑にしようとした。ところが仙千代丸はけなげにも、「われ幼弱なれども武士の子であるから、礫刑に処せられるのは快くない。ぜひ切腹をさせて欲しい。」と懇願した。信豊はこの仙千代丸のけなげな申し出に感じ、その願いを聞き入れて切腹を申し渡した。
 しかし、その時13歳であった仙千代丸は、まだ切腹の作法をよく心得ていなかった。そこで従者であった黒谷甚九郎が、自分に見習って切腹させるために先に切腹して見せたので、仙千代丸も見事に切腹した。
 ほかにも説がある。武田氏は仙千代丸を処刑するに当って、わざわざ鳳来寺山麓門谷部落の金剛堂の前へ引出し、多数の人たちの見ている前で、仙千代丸を、首だけ出して土埋めにした上、首を竹ののこぎりで切って落すというむごい処刑をしたという。仙千代丸は一般の人たちの深い同情をかい、やがて徳川の勢力下になってから、この土地の心ある人たちによって祠がたてられた。この仙千代様の祠は、その後長く今日まで、門谷部落の人たちの手で祭り続けられ、若くして哀れな最期を遂げた仙千代丸の霊を慰めている。

鳳来町誌民族資料編(南設楽郡鳳来町発行)


奥平仙千代の墓

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