● 木喰五行上人 前のページへ戻る   HOMEへ戻る

 上人は今から250年ほどむかし、甲斐国の古関と言う山の中の小さな村のまずしい百姓の子として生まれました。14の時江戸に出て、22歳で真言宗の坊さんとなり、45のとき木喰観海の弟子になりました。それから日本全国をめぐり歩き、あちらこちらで仏像をつくりました。そうして93歳でなくなるまで仏像を千体以上も刻んだということです。
 上人はいつも黒染の衣を着、背中に笈をしょっていました。その笈の中にはお経の巻物と、旅のことをくわしく書いた日記帳などが入っていました。それによると、塩沢へ来られたのは、上人が82歳の時で、今から約170年も昔のことになります。
 上人が来られた時、塩沢の観音堂にまつってあった仏像が、ひどくいたんでいたので、村人達がお願いしてかわりに彫ってもらったのが、今の観音様です。上人はこの観音様を彫るのに、今の小久保紋治さんの家に泊まっていて彫ったということです。
 上人は、塩沢からいったん次の遍歴地である狩宿村(静岡県の引佐町)で、寛政12年の正月をすごしてから市川へわざわざ出向いて子安観音を彫ったといい伝えられています。この像は、今は市川の徳蔵寺に、子授け、安産の仏としておまつりしてあります。
 上人の彫った仏像は、みなにっこりと笑っています。怒った仏像でも笑っているとさえいわれています。それは、上人がいつもにっこり笑っていたから、仏像もそうなったのでしょう。上人は背が低く、あごひげをはやし、いつもにこにこしていて、とても人をひきつける力があったといわれます。また子どもが好きで、子どもを見ると頭をなでたり、いっしょに遊んだりしたそうです。
 上人の彫った仏像は、だれのまねでもなく、本当に自分で作りあげたものでした。自由で、自然でのびのびとして、上人の心がそのまま彫り出されています。
 上人は仏像を彫るには、夜、線香をたきながら、身を清めて彫ったそうですが、その早いこともびっくりするほどで、1日に3体も彫ったことがあるそうです。4mもある大きなものでも、10日もあれば仕上げてしまったといいます。上人の彫ったものは1m以上のものが多く、、死ぬまでに1000体も彫りあげましたが、今残っているのは、年とってからのものが多いそうです。
 木喰上人は名の通り、植物しか食べず、しかも煮たものは少しも食べなかったそうです。泊まる所も、人が「ここに泊まってください」といわなければ、何日でも野宿をしたりしていましたが、年とってからも驚くほど健康でした。

 新城昔ばなし 365話(新城市教育委員会発行) より引用 


徳蔵寺

塩沢・十一面観音立像

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